2018.06.08 ON AIR

映画「私はあなたのニグロではない」とブルーズ

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ON AIR LIST
1.Damn Right, I’ve Got The Blues/Buddy Guy
2.Baby,Please Don’t Go/Big Joe Williams
3.Stormy Wheather/Lena Horne
4.Big Road Blues/Tommy Johnson

先日「私はあなたのニグロではない」という映画を観ました。監督はハイチ出身のラウル・ペック。
このタイトルのニグロという言葉はアメリカ黒人に対する差別用語ですが、この痛烈なタイトルが示すように、この映画はいまだに続くアメリカの人種差別とそこから生まれる社会的な格差を告発したものです。
映画の内容についてはやはり映画を観てもらうのがいちばんなのでここで詳しくは言いません。
映画は偉大な黒人作家のジェイムズ・ボールドウィンが残した原稿を元に遠い過去から続く黒人への人種差別と白人至上主義がいまだにアメリカでまかり通っている現状を、残された膨大な映像や画像そして文献を元に描かれています。
この番組でとりあげているブルーズという黒人音楽が生まれた背景には、多くの方がご存知のように奴隷としてアフリカから強制的にアメリカに連れて来られたその発端からして信じられない虐待と差別があります。自分は幾度となくその虐待と差別について考えてきました。ブルーズという音楽はそういう悲惨な状況なくして生まれなかった音楽です。逆いうとブルーズは本当は生まれない方がよかった音楽と言えます。でも、そういう状況で生まれたブルーズという音楽が世界中の人たちに受け入れられ、今日まで歌い継がれてきたのはブルーズの中に「真実」があるからです。
この映画は奴隷としてアフリカから連れて来られたアメリカの黒人(アフリカン・アメリカン)が白人に従順にしていなければリンチされたり、暴力をふるわれたりした遠い昔から60年代に起こった公民権運動や人種差別撤廃の動きの流れを描きながらも、実はいまも何も変わらない人種差別の構図が自由と平等の国と謳うアメリカで行われているということを訴えています。
人種のことだけでなく差別主義そのものをとても考えさせられると同時に、ソウルやファンク、ゴスペル、ジャズそしてブルーズといった黒人音楽の深い奥底を知ることができる映画です。

映画の中にはいろんな黒人音楽と映像が使われていますが、最初に流れるのがバディ・ガイのこのブルーズでした。
「そうだよ、オレは頭から靴までまるっきりブルーズだよ。頭から靴までブルーズに取り憑かれてる。オレは勝つことはできないよ。なぜって失うものなにも持ってないからさ」1991年リリース、バディ初めてのグラミー。最優秀コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム賞を受賞した彼の復活の作品と言われたそのタイトル曲です。
1.Damn Right, I’ve Got The Blues/Buddy Guy
Damn Rightというのは「ああまったくその通りだよ」というような意味だから、ああまったくその通りオレはブルーズに取り憑かれているという意味です。

この映画「私はあなたのニグロではない」は60年代の小説家であり、詩人であり、公民権運動の運動家であり思想家であるジェイムズ・ボールドウィンを中心に60年代当時の公民権運動を牽引したマーティン・ルーサー・キング牧師、そしてやはり運動家で「黒人地位向上委員会」の委員だったメドガー・エヴァース、そして急進的な運動家だったマルコムXこの3人の活動をからめながらストーリーは進みます。そして、この3人の政治運動家は3人とも暗殺されています。僕は高校生の頃にボールドウィンの「もうひとつの国」という本を読んだり、この映画にも出てくる黒人俳優シドニー・ポワチエ主演の映画「招かれざる客」も観ました。マルコムXの考えに強く共感したこともあります。当時のアメリカのベトナム戦争への介入や国内の人種差別撤廃運動も高校の頃、リアルタイムで知っていて当時の若かった自分にそうしたことが精神的な大きな影響を与えた思います。
そこからしばらくしてブルーズという黒人音楽に没入していく自分の中には、白人至上主義への反発や人種差別だけでなくあらゆる差別への反発の気持ちが大きく作用していました。

映画では僕がブルーズを知り始めた頃によく聴いたこのブルーズも流れていました。1935年の録音。たくさんのミュージシャンにいまも歌い継がれているブルーズのスタンダードのひとつです。ひたすら「ベイビー、行かないで」と繰り返され「最後にニューオリンズへ行かないで、オレは愛してるんだよ」歌われるところに彼女を失う切実さが出ています
2.Baby,Please Don’t Go/Big Joe Williams
このビッグ・ジョーを敬愛していたボブ・ディランも映画に登場します。

僕はブルーズにのめり込んでからブルーズを生んだアメリカ黒人の文化や歴史、生活様式、黒人の美学に興味を持ちました。それはブルーズの歌詞を聴くと当然そうなるわけで、つまりブルーズという音楽の背景を知りたくなり、そこには当然人種差別と白人との生活の格差のことがいろんな形で出てきます。どうして人種の差別を白人はするのか、どうして白人は自分たちよりも黒人が下だと白人至上主義になるのか。この映画でも言われてますが生まれてすぐの赤ん坊に、そして3,4才までの子供に白人も黒人も差別の意識なんてありません。ほっとけば白人の子供も黒人の子供も日本人の子供もみんな一緒に遊びます。つまり、差別は意図的に作られているものなんです。それは黒人側が作ったものではなく白人が作ったものです。それを白人側が本当に認識して改めないと差別はなくなりません。ところがいまだに黒人の少年が白人の警官に無防備のまま過剰な暴力を受けて、人間として扱われてないような殺され方をする事件がアメリカにはあります。つまり、60年代に公民権運動で問題にされたことの本質はなにも白人に改められていないということです。有色人種のオバマが大統領になっても根底は変らなかったということです。
次の女性ジャズシンガー、レナ・ホーンの1943年のヒット曲「Stormy Wheather」もこの映画で流れます。レナ・ホーンはお父さんが白人とのハーフだったのでそれほど黒くなく褐色の肌をしていました。そして、美しい顔立ちをしていたので映画やミュージカルにも出演しました。でも、アメリカでは一滴でも黒人の血がある人はみんな黒人とされてしまい、彼女は役者として演じる役も限定されたり、歌を歌うシーンだけ使われたり差別を受けました。そのことに彼女は憤り自分をしっかり保ち、白人の機嫌をうかがったり、迎合したりすることはしませんでした。そして、やはり公民権運動に参加するようになりました。
3.Stormy Wheather/Lena Horne

いまのレナ・ホーンだけでなく、この映画に現れるシドニー・ポワチエやハリー・ベラフォンテといった黒人の俳優や歌手は、白人が主体のアメリカの大きなショービジネスの世界で人種の差別と自分のアイディンティティに悩んでいます。黒人は白人によって怠け者として描かれたり、結局は白人に従うメイドや下男や召使いの役しか与えられなかったり、あるいはおどけ者として使われたり・・・そういう差別をずっと続けている白人の感覚が僕にはわかりませんが、この映画でも言われてたように白人は黒人に恐怖を感じているのかも知れません。身体的、肉体的な妄想のような恐怖とも思えるし、いままで虐待してきたことへの復讐を恐れているのかも知れません。
テレビでみる白人の警官たちが黒人を殴り蹴りする様子は何かを恐れ、何かに取り憑かれているように思えます。
元々先住民であるインディアンが住んでいる土地を白人はヨーロッパからやってきて侵略し、そこにアフリカから無理矢理つれてきた黒人を奴隷にしたわけですから・・何をか言わんやです。
人種の差別だけでなく、男女の差別や貧富の差別などいろんな差別意識は結局自分自身に返ってきます。つまり、僕自身もこういう映画を観たり、本を読んだりすると、いろんな人に対して差別の意識が本当に自分にないのかという自問が生まれます。そういう意味でもこの映画が提起している問題は観た人たちに返ってきます。

最後にこの映画の中でいたたまれないくらい胸を撃たれたのは、1957年に南部のシャーロットという街の15才のドロシーという黒人の少女が黒人として初めて高校に進学する日の光景です。その当時はもちろん高校には白人しかいません。周りをたくさんの白人に囲まれて「黒人がなんで高校に来るのか」とか「帰れ」と言った罵声を浴びせられ、ツバを吐きかけられ彼女が登校するシーンでした。そんな白人たちのひどい仕打ちにも彼女はまっすぐ前を見て毅然と登校するのです。罵声を浴びせ、ツバを吐きかける白人たちがどれほど醜くて、黒人のドロシーがどれほど美しいか・・人間として。涙したシーンでした。

映画で流れた1928年ミシシッピーのブルーズマン、トミー・ジョンソンの名曲。
「このひろい大きな道をオレはひとりで歩いていかなければいけないのか。あまえが一緒に行ってくれないのなら他の女を探さなきゃ」
ミシシッピーの田舎の人気のない広い道をひとりでいく寂しさは自分の人生をひとりで歩んで行くようにも感じます。ブルーズの永遠の名作です。
4.Big Road Blues/Tommy Johnson

映画が終わってから上映していた小さな映画館から出てしばらく渋谷の街を歩いたのですが、華やかなそして、賑やかな街と楽しそうな人たちにいま観た映画との気持ちの狭間に心が揺れました。
この映画「私はあなたのニグロではない」がただアメリカで続いている人種差別の映画ということではなく、僕は自分自身の中に向かって問われている映画だと受け止めました。もし、どこかで観る機会があったら是非ご覧なってください。