2018.02.16 0N AIR

追悼:ウィーピング・ハープ・セノオ

Messin’ Around/Weeping Harp Senoh
(ビクター/P-Vine Records PCD-5741)

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ON AIR LIST
1.Juke/ウィーピング・ハープ・セノオ
2.Bobby Sox Baby/ウィーピング・ハープ・セノオ
3.Oh Baby/ウィーピング・ハープ・セノオ
4.Unseen Eye/ウィーピング・ハープ・セノオ

 

 

 

 

 
昨年の年末12月17日に70年代から一緒に日本でブルーズをやってきた盟友ハーモニカのウィーピング・ハープ・セノオこと妹尾隆一郎くんが亡くなりました。享年68才でした。
45年におよぶ長い付き合いでたくさんステージも共にしたブルーズの仲間であり、思い出もたくさんあります。非常に残念な想いでいっぱいです。

今日は妹尾くんを偲んで彼のファースト・アルバムを聴きながら話してみたいと思います。
いまはブルーズのハーモニカを吹いている若い人たちがたくさんいますが、ブルーズそのものを感じさせてくれるハーモニカ・プレイヤーは少ないです。妹尾くんはブルーズのとてもディープな感じを表現できる人で、一緒にステージに立っていると聞き惚れてしまうことも多かったです。

妹尾くんのファースト・アルバム”Messin’ Around”は1976年にビクターからリリース。日本のブルーズ・ムーヴメントが頂点に達していた頃です。
このアルバムには実に多彩なメンバーが参加しています。ウエストロードから塩次伸二、小堀正、松本照夫、ブレイク・ダウンから服田洋一郎、近藤房之助、小川俊英、森田恭一、憂歌団から内田勘太郎などなど。収録は高円寺JIROKICHIでのライヴとビクターのスタジオ録音とふたつ使ってます。
妹尾くんが日本のブルーズ・ハーモニカのパイオニアであることは間違いないです。もちろん、妹尾くんの前にハーモニカを吹いていた人は日本にいますが、黒人ブルーズのハーモニカをストレートに開拓していったのは妹尾くんです。実は僕はブルーズを歌い始めた頃、ハーモニカを吹いていました。しかし、ある時妹尾くんが僕が出演していた京都のディスコに現れてハーモニカを吹いた時点で僕はハーモニカをやめました。自分との力量の差があまりにも歴然としていたからです。その時点で妹尾くんはポール・バターフィールドをすでに吹けていました。まだ、プルーズ・ハーモニカの教則本やビデオなんかない時代に、妹尾くんは自分で研究してブルーズ・ハーモニカに近づいていきました。
まずは妹尾くんのハーモニカが堪能できるリトル・ウォルターのインスト曲のカバーから聴いてください。
1.Juke/ウィーピング・ハープ・セノオ

妹尾くんはハーモニカ・プレイヤーですが、このアルバムで最初の三曲はハーモニカを吹いていなくてヴォーカルだけで勝負しています。その一曲目は彼が大好きだったT.ボーン・ウォーカーの曲。彼はのちにT.ボーンの”I’m Still In Love With You”もレコーディングしています。聴いてもらうBobby Sox Babyでは亡き塩次伸二がT.ボーン・マナーですが、実にアグレッシヴなギターを弾いています。僕もそうですが、たぶん妹尾くんも東芝がこの当時特典盤としてキャピトルレコードの10インチレコードで出していました。そこに収録されていたT.ボーンのBobby Sox Babyを聴いたのだと思う。いいアルバムでした。
2.Bobby Sox Baby/ウィーピング・ハープ・セノオ

次もリトル・ウォルターの曲でこれは妹尾くんがライヴでよくやっていたのを覚えてます。僕たちはほぼ同時期にまったく違うところでブルーズに出会っていた。ブルーズの前にロックをやっていたのも一緒だった。さっきポール・バターフィールドの話をしましたが、僕も妹尾くんもポール・バターフィルド・ブルーズバンドを聴いていてそこからバターフィールドが参加しているマディ・ウォーターズのアルバム”Fathers And Sons”に出会っている。そのマディのアルバムが黒人ブルーズへの導入になったのも一緒だった。僕はマディにすごく興味があり、妹尾くんはマディのバックだったハーモニカのリトル・ウォルターの天才的なプレイに刺激されたのは当然でした。
この録音のバックはブレイクダウン。ギター服田洋一郎、ギター近藤房之助、ドラム小川俊英、ベース森田恭一、もう服田洋一郎も小川俊英も天国へ逝ってしまった。そして、妹尾くんも・・・残念です。
3.Oh Baby/ウィーピング・ハープ・セノオ

実は70年代初期に東京と京都のブルーズの橋渡しをしたのは妹尾くんでした。彼は兵庫県宝塚の出身でしたが、大学は東京の中央大学。だから東京のブルーズをやっている連中もよく知っていた。妹尾くんは物怖じしない積極的でオープンな性格だったので、知人友人が多かった。それで僕が京都でウエストロードブルーズバンドを始めた頃、知合ってすぐに「東京にブルーズの店があるんやけど演奏に行かへんか」と誘ってくれた。それが西新宿にあった「マガジンNo1/2」という変った名前の店だった。そこに東京でブルーズを当時やっていた連中がたむろしていた。初めて行ったのは1972年。トヨタのハイエースにみんなで乗り込んで京都から東京へ向かった。僕は22才妹尾くんは23才。若かったから無茶なこともたくさん一緒にやりました。お互いのステージを見て、ブルーズを模索していた時期でした。ブルーズの歌詞のことなどもよく話し合った覚えがあります。
次の曲は僕が大好きなブルーズで歌いたいなぁと思っていたら妹尾くんに先にやられてしまったサニーボーイ・ウィリアムスンのブルーズ
4.Unseen Eye/ウィーピング・ハープ・セノオ

妹尾くんはハーモニカの前にベースを弾いていたということでビートルズのカバーなんかやっていたらしいです。気難しいところもあったけど僕は一度も喧嘩したことはない。僕も若い頃は気難しかったからかも。
昨年病気が発覚して手術前の病院へもKOTEZくんとお見舞いに行きました。その時は僕よりも元気でいつものようにいっぱい喋ってくれた。その後のメールで手術は成功したと聴いていたのですっかり安心して、「完全復帰したらお祝いに何か御飯をごちそうするから何がいい」と聴いたら「焼肉、旨い焼肉」と妹尾くんが言ったので旨い焼肉屋を探しておいたのに、結局一緒に行けなかった。1月と2月も一緒にやるステージがあったけど去年の12月のはじめに本人からキャンセルのメールが届いた。最後に会ったのは去年の11月福生ブルーズフェスで一緒に4曲やった。本当に残念。

妹尾くんDISC
・ 『メッシン・アラウンド』(ビクター・フライングドッグ)1976
・ 『ブギ・タイム』(ビクター・フライングドッグ)77年
以上2枚はPヴァインでCD化の後、ビクターから紙ジャケットで再発。
・ 『ONE MORE MILE』(BLACK BOX INC.)
ローラーコースター
・ 『ザッツ・ナッシング・ニュー』(VIVID Sound
・ 『キープ・イット・アップ』(VIVID Sound)
・ 『ブギー・ディスカウンター』(VIVID Sound)
・ 『サムシング・フォー・リトル・ウォルター』(VIVID Sound)
・ 『キープ・オン・ゴーイン』(Pヴァイン)1995年
BLUES FILE、塩次伸二とのデュオアルバム、最近は京都の小竹兄弟がバックをしたアルバムなどたくさん出ています。探してください。

日本でブルーズのハーモニカをやっている人は妹尾くんのプレイを聴いた方がいいと思うが、もうレコードやCDでしか彼を聴くことは出来ない。そして、日本でブルーズハーモニカの道を切り開いたのは彼だということを覚えていてください。今日は去年の12月17日に亡くなったウィーピング・ハープ・セノオくんのアルバム”Messin’ Around”を聴きました。
いろいろありがとう、妹尾くん。冥福を祈ります。